《〈釋殷墟甲骨文裏的“遠”“𤞷”(邇)及有關諸字〉導讀》日本語訳(三、(一))

三、《遠邇》文の関連字形に対する研究

かつて、裘先生は自分について「古文字の考釈においては、朱德熙先生の影響を最も深く受けた」と述べている*1。また朱德熙先生の古文字考釈を評価して「先生の古文字字形に対する分析は、非常に緻密である。ある時、とある字のある字形が訛変や簡化によって解読できないでいた。一般人は決してその字形がとある字の異体とは思い至らなかったが、先生はその字の字形変化の複雑な過程を正確に明らかにすることを通して、その字形が確実にその字の異体であることを人々にはっきりわからせた。」とも述べた*2。裘先生の古文字考釈文章を読んだ読者はみな同意するところだが、裘先生の古文字字形に対する研究も往々にして同様の特徴がある。

 

(一)「認清字形」

古文字考釈において最初に出くわすのは、認清字形【明瞭で正確な字形をとらえる】という問題である。唐蘭先生は古文字研究に対して「認清字形に学者は最も注意しなければならず、もし形体筆画がきれいなものを扱わなければ、あらゆる研究はたちまち使い物にならなくなるだろう」と述べた。しかし古文字材料はそれ自体がしばしば多種多様な問題を抱え、私達が明瞭な字形を識別するのを困難にしている。例えば唐蘭先生は以下のように指摘した。「古文字形体の識別の難しさには、幾種もの原因がある」「契刻・鋳型が不正確で、しばしば文字の筆画が誤っていたり、抜け落ちたり乱雑だったりする」「古器物が永い時を経て、摩滅を免れず、破損したり、或いは土片やサビがついて字画が不明瞭ないし不完全になったりする」「古器物が出土後に、俗人に傷つけられる」「特によくあることだが、拓本が不鮮明だったり、印刷の質が悪かったりして、筆画を識別することができない」「模本や臨本の誤り」等等*3。この二、三十年の間に研究のホットスポットとなった戦国竹簡に関して言えば、字形がぼやけて不鮮明だったり筆画が汚物に覆われていたりといった問題が往々にして存在する。

甲骨文字考釈について言うと、「認清字形」で特に注意が必要なのは、拓本上の泐痕【損傷の痕】或いは甲羅の継ぎ目の線を排除することや、拓に筆画が完全に写しきれていないこと等による障害である。《遠邇》文では、例えば脚注①で後下42.8つまり《合》30273の「⿰彳⿱衣又」について「《甲骨文編》をはじめ多くが「⿰彳⿱衣又」字を「⿰彳衣」に誤って模写している」と指摘する。《合》30273の拓本を見てみると以下のようである。

《合》30273「⿰彳⿱衣又」

この中の「又」旁はまだなお一部が判別できるが、その位置は右下隅に小さく書かれているだけであり、また完全に拓に現れておらずそれほど鮮明でないため、きわめて見過ごしてしまいやすい。最近出た《甲骨文字編》732頁2429号「遠」字の最後の欄に収められている《合》30273の形は《甲骨文字編》732頁2429号《合》30273「⿰彳⿱衣又」で、やはり右下の「又」旁を模写しておらず、かつその一部筆画を誤って「衣」旁とつなげて、「衣」形の末筆としてしまっている。また例えば、《甲骨文字編》726頁2413号「卒」字の項には《合》05884反《甲骨文字編》726頁2413号《合》05884反「卒」が収められているが、この字は実際は《遠邇》文で引用された第(20)辞《乙》7200「袁入五十」の「袁」字である。「袁入」の二字の形は拓本ではこうなっている。

《乙》7200「袁入」

《甲骨文字編》は誤って「又」旁を泐痕と考えたために、漏画・誤釈してしまったのかもしれない。

このような誤摸・誤釈といったことは古い甲骨文研究論著や関連工具書においては非常によく見られ、裘先生は《類纂》の書評の中で比較的集中的に証拠を挙げて論述している*4ので、参照されたい。裘先生のそのほかの古文字考釈文章中でも、常々いくつかの工具書の模写字形の誤りの訂正を含んでいるが、これらもみな「認清字形」の第一歩に属するということができる。

裘先生の論文中で言及されているものには、先に挙げた唐蘭先生のいう「鋳型が不正確」によって字形を誤認することの例も存在する。例えば彼は西周早期の小臣𬋵鼎(《殷周金文集成》――以下《集成》――2556【《銘圖》02102】)「召公△匽(燕)」の「△」字を「建」と釈したが、その形は下のようである。

小臣𬋵鼎「建」 / 小臣𬋵鼎「建」(模本)

裘先生は殷墟甲骨文の下の形を引用して、

《合》36908「建」《合》36908

鼎銘の字は「まさに(甲骨文の)この字の繁体であり、その左側の縦画と下部の横画が「𠃊」形につながっていないのは、鋳型が不出来だったからかもしれない」と指摘する*5。思うに、「𠃊」に従う字は限られ、小篆と古文字中の既に知られた「建」字はみな「𠃊」に従う形に作っている。つまり、先人が正確に「△」字と「建」を結びつけていくことができなかったのは、「鋳型が不出来だった」ことによって字中の「𠃊」形の左下隅が断裂し、正確に認識できなかったことが、明らかに一つの重大原因である。

いわゆる「認清字形」の一歩は、もともと厳格な用語ではないため、その意味は広くも狭くもとれる。広い意味の方で言えば、後述する「字形の異同の判別には、微細な違いに注意せよ」というのも、「認清字形」の一つということができる。

 

(三、(二))へつづく

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*1:《著名中年語言學家自選集・裘錫圭自選集》末所附“作者簡介”,河南教育出版社,1994年,236-237頁。

*2:《朱德熙先生在古文字學方面的貢獻》,《文集・雜著卷》,183-184頁。

*3:以上皆見《古文字學導論》(增訂本),156-161頁。

*4:《評〈殷墟甲骨刻字類纂〉》,《文集・雜著卷》,64-81頁。

*5:《釋“建”》,《文集・金文及其他古文字卷》,40頁。